田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-2)
幕末外交に関する田邉太一のつぶやきを、前ブログからつづけます。
(2)中間譴を蒙りて屏居せし事ありといへとも幾もなく故に復して以て其終りに到れり
私は二度も役目を解かれた。自分のことより国家のことを考えた結果だ。最初は横浜閉鎖を言いに池田使節団の組頭としてパリに随行したとき。二度目は徳川昭武パリ万博使節に随行したとき。閉門蟄居を命ぜられたが、形の上だけで済んだ。そして江戸城無血開場の最終決定会議を徳川慶喜の前で小栗上野介等徹底抗戦派とともに勝海舟の無血開城派と対峙した。
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(3)されは予の謭劣を以てするも幕府外交の事實に於てはやゝ通曉する所あり
外国奉行は1858(安政5)年以來1868(明治1)年までの10年間に、定員3~4名とは言え、60人が入れ替わり立ち代わり就任している。最長在任奉行は3年間でしかない。要職は家格の高い幕臣の世襲制だから致し方ない。私はこの10年間継続して外国奉行所に在籍した。その6年間は組頭という実務の長だった。だから幕府外交の生き字引である。
(4)世に幕末の事を記するの書たゝに十百のみならす然れとも紪繆相望外交の事に於て殊に其甚だしきを見る
薩長が歴史を歪曲した。薩長政府を批判する記事を書いたものは逮捕されるなど言論統制がきびしかった。よって戊辰戦争のことは、薩長は善、徳川は悪という視点で整理される始末である。とくに外交事情に関しては歪曲と捏造が甚だしい。弱腰外交をやった徳川幕府の負の遺産を薩長が後始末したということになっている。勝てば官軍というが、薩長はとくに著しい。
(5)遂に自らはからす一史を著して信を後世に傳へんとの志ありしも老懶これを果し得す
いたたまれず重い腰を上げ、とくに具体的計画をした訳でもないが、幕末外交史を書いて後世の人々の判断にまかせようとの志を立てたが、寄る年波には勝てず、悶々としてきた。外国奉行所時代の同僚で失意の福地源一郎とともに吉原を豪遊したのも、そのはけ口を求めたものだった。福沢諭吉と成島柳北の先生に対して、福地とともに御前様として花柳界を風靡した。
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