吉原の歴史 Ⅳ
吉原は、江戸時代後も明治・大正と遊郭街として生き抜きますが、昭和23年の売春防止法施行により、吉原は終わりを告げます。
しかし、現在の吉原は高級ソープランドが立ち並んでおり、350年以上経た今も江戸の吉原の名残を残し続けています。
吉原は、江戸時代後も明治・大正と遊郭街として生き抜きますが、昭和23年の売春防止法施行により、吉原は終わりを告げます。
しかし、現在の吉原は高級ソープランドが立ち並んでおり、350年以上経た今も江戸の吉原の名残を残し続けています。
吉原の営業時間はどうだったのでしょうか?
吉原の営業時間は、昼見世が正午ごろ(昼九つ)から午後4時(七つ)ごろまで。夜見世は午後6時(暮六つ)から午後10時(夜四つ)までという事になっていました。ただ実際は、午後10時に大門が閉ざされていただけで、午前0時(暁九つ)まで営業されていたようです。
夜見世が始まる午後6時には、「清掻」といって遊女屋が一斉に三味線を弾く習わしがあり、それが営業開始の合図でした。そして閉店(引け)の午前0時(暁九つ)には、拍子木を4回打ち、あらに続けて九つ打ったといわれています。
営業時間は、現代の風営法より厳しかったようですが、営業開始の合図が三味線であったというあたりに、なんともいえない風情を感じます。
吉原が人形町から移転することになったのは、1657年(明暦3年)のこと。移転の理由は、人形町に武家地や町が広がった為です。
このことは、現在の歓楽街にも同じことが言えます。
幕府は業者に対し、本所か千束に移転することを命じます。そこで、業者は千束を選択。
千束に移転することによって、これまで昼のみしか認められなかった営業が、夜も認められるようになります。
現在でも「遊里」であり続ける吉原の街。
その始まりは、天正18年(1590年)8月1日、徳川家康が江戸入城したときからだと言われています。
徳川家康の江戸入城した当初、遊里は江戸城下に点在していました。
しかし、慶長8年(1603年)の徳川幕府成立によって江戸の町の発展すると、分散していた遊里をまとめて「傾城町」を造営したいとする要請が、業者の側から起こってきます。
幕府としても、治安・防犯上の理由から遊里をまとめて管理したいとのもくろみもあり、元和3年(1617年)幕府はその要請を認可します。
傾城町が営業を始めたのはその翌年のことです。場所は現在の東京都中央区日本橋人形町にある大門通りを中心とする一帯でした。