田辺(田邉)太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-7)
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岩倉遣米欧使節団に関して田邉太一はつぶやく。
<薩長の意気込み>
徳川幕府時代の外交は何をやっていたのか。不平等条約を結ぶとは、なんという弱腰だったのか。だから自分達でそれを正してやる。これが岩倉遣米欧使節団の意気込みだった。事実幕府外交の生き字引、私の出番はなかった。私達随行書記官の役目は"台所の切り盛り"に過ぎなかった。私はそのように感じ、命ぜられた事務以外には手をださなかった。
<パリ万博使節団の通信>
私は1867(慶應3)年のパリ博覧会徳川昭武使節団の組頭だった。その時、持参した運営資金がなくなり、逆為替を組んで日本から送金してもらった。当時はパリから上海まで電信が通じていた。上海から江戸までは船を利用した。これで逆為替が成立したのだ。そういう実務経験を持っていた私が、実務未経験の薩長政府から頼まれればいやとは言えず事務方を引受けた。
<岩倉遣米欧使節団の通信>
使節団が1872(明治5)年にニューヨークから打電した電報は、大西洋経由で欧州、インド、上海を経由して5時間で長崎に着いた。そこから江戸までは馬の便で3日かかった。帰国した1873(明治6)年には、長崎~東京間が開通した。だから使節団と東京とのテレコミニュケーションには不自由しなかった。裏方の書記官がこれを担当した。このために書記官を引受けた。
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