京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(14)
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以後、1868(明治2)年に弾正台巡察、1870(明治3)年に北海道開拓権判事、1871(明治4)年に鳥取県少参事、鳥取藩士として堂々の凱旋です。
1873(明治6)年に一旦退官して野に下り、自由民権運動に身を寄せました。なんと血の気が多いことでしょうか。しかし1875(明治8)年には元老院書記官として呼び戻されました。1877(明治10)年に熊本県大書記官。ここで西南戦争の後始末で業績を上げました。
1878(明治11)年に内務省書記官、1879(明治12)年に高知県知事(県令)、1880(明治13)年に徳島県を高知県から分離独立させて徳島県知事を兼任。そして1881(明治14)年に倒幕志士とし刀を振り回した思い出の深い京の地の、京都府知事(府伊)を拝命しました。このとき北垣国道は、44歳でした。ちなみに申し添えます。当時の知事は、中央の内務大臣が任命する内務省の官吏でした。この状態は大東亜戦争敗戦までつづきました。
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