京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(15)
前ブログからつづきます。
幕末明治の倒幕志士としての北垣国道を前ブログまでにおいて紹介しました。
―― 私は以下のように考えます。
北垣国道は志士として活躍した京都。そのときの思い出のある京が衰退していることを見るに忍びなかったものと思われます。
―― 明治の初めに明治天皇が東京に行幸されました。そして帰って来られませんでした。これにより、40万人の人口が20万人に減少しました。この時期に当たって北垣国道が第三代京都府伊(知事のこと)として着任しました。
―― これを見た北垣国道は、京都の復興を計画しました。
次ブログへつづきます。