田辺(田邉)太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-21)
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兄孫次郎に関して田邉太一はつぶやく。
<洋式銃砲の先駆者>
長崎で育った高島秋帆は西洋の炸裂弾元込め式大砲"と"椎の実型鉄砲玉薬きょう式銃"が日本の"丸型砲弾先こめ式火縄砲/銃"よりはるかに大きな破壊力/殺傷力をもつことを知って愕然とした。そこで幕府に建議し、採用されて"徳丸が原"の実射演習を披露した。ペリー来航の12年も以前のことだった。秋帆の弟子兄孫次郎も演習に指揮官として参加した。
<先駆者を潰す愚かな幕府>
高島秋帆は幕府の中に巣くっていた因習姑息の輩の讒訴に会い、1842(天保14)年に長崎で逮捕/家名断絶となった。秋帆の弟子兄田邉孫次郎は、秋帆の志を継いで講武所を設立し、西洋砲術教授となった。惜しいことには、江戸に流行した麻疹に罹病して1863(文久3)年に死亡した。生きていたら薩長を凌駕する強力陸軍を育成したであろう。甥朔郎が幼くして家督相続した。
<幕府には現金がなかった>
幕府には大砲や鉄砲を買う現金がなかった。現金とは銀貨と金貨である。流通はしているが通過供給量が十分ではなかった。米本位制を守ってきた幕府に付けが回ってきたのだ。だから勘定奉行の反対に会って讒訴された。幕府にも悪人がいるものだ。一方、薩長は現金をもっていた。薩摩は密貿易、長州は関門海峡の通行料、肥前は陶磁器、土佐は樟脳によって稼いだ。
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