京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(6)
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当時、日本の重要な工事はすべて外国人技師の設計監督に委ねていました。琵琶湖疏水については外国人技師達は不可能だといいました。そこで琵琶湖疏水はずべてが日本人の手によって行なわれました。この工事の完成をもって早くも明治中期に日本の土木技術の独立がなりました。
―― 工事には近代工法を取り入れました。トンネル掘削には日本で最初の縦坑工法で工期短縮しました。山の途中で二箇所縦坑を堀り、トンネルの中間から両側に向かって進みました。掘削深度を浅くするために地形の沢の部分を選びました。ですから湧水に悩まされました。現在なら地形の尾根を選ぶでしょう。
―― インフラストラクチャーの整備されていないあ時代のことで大変な苦労がありました。例えば、電力が無いのでトンネル内部の照明はカンデラでした。湧水汲出しポンプは蒸気駆動。煉瓦は自製。技術者・技能者は現場で教育。ダイナマイト、雷管、導火線、セメントは輸入品でした。
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