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京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(9)

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北垣国道は、歴史に大きく残る「生野の変」の首謀者です。当時北垣晋太郎といいました。この二人が同一人物であることは、世間ではあまり知られていません。このブログを読んだ方は、このことを御認識していただくようお願い申し上げます。

―― 北垣晋太郎国道は但馬養父の庄屋(郷士)出身であり、池田草庵の塾に学んだ勤皇の志士でした。譬えて言えば、新撰組の近藤勇のような身分でした。しかし志す方向が異なりました。ロシア等が国境を脅かしているときでしたから、目的は国防でした。

―― 晋太郎国道は鳥取藩士や福岡藩士と共謀し、農兵300人を募集し、これを指揮して生野銀山の幕府代官所を襲撃しました。

―― 福岡藩士の平野国臣に頼んで8月18日の政変で長州へ逃げていた七卿落ちの一人、沢宣嘉を担ぎだしました。しかし3日で平定されました。農兵は負けると知って逆に指導者を後ろから鉄砲を撃ちました。沢は逃げました。

―― リーダー格の多くはその場で切腹しました。北垣晋太郎国道も養父の実家にまで逃げ、そこで切腹しようとしましたが、母親に「再起を期せ」と言って制止され、鳥取に逃げ込みました。

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