京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(12)
前ブログからつづきます。産経新聞の山内昌之先生の記事の紹介から、元の話の筋へもどります。子孫が語る(9)からつづきます。
前回述べたように、生野の変で破れた北垣晋太郎国道は、養父の実家にまで逃げ、そこで切腹しようとしましたが、母親に「再起を期せ」と言って制止され、鳥取に逃げ込みました。
ここで付記します。首謀者の一人、平野国臣は生野の変の後で捉えられ、京へ連行されて入牢を受けていましたが、門(はまぐり御門)の変の直後に処刑(斬首)されました。生野の変で実際に戦闘に参加して生き残った武士は、北垣国道を含めてわずか2年です。そのせいか、北垣国道は生野の変に関して語ることを好まなかったようです。
それはさておき、北垣国道は八木良造を変名して鳥取藩に逃げ込み、藩の私的密偵となって京へ潜伏して幕府側の動向を探っていました。ところが第一次長州征伐の余波をうけて鳥取藩の藩論が一変し、勤皇を捕縛する動きがでました。そこで生野の変を支援していた長州に逃げ、名前を柴捨造と変えて奇兵隊に身をよせました。奇兵隊で第二次長州征伐を経て伏見鳥羽の戦いに参加。
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