田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(3-4) ― 子孫が語る。
徳川幕府のNo.1"職業外交官"田邉太一の生き方を尊敬する子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。
(5)而して堀田閣老が 次て其事に當るにあたりては、平生の信する所を以て、一切開國の規模を定め、朝廷に啓沃して、以て我國をして萬國と并立し、其交際塲裹に立しめんとの卓見あり、其議論の正大公明なるは、天晴濟時の良相といふべしといへども、勢の不可なる、左支右吾以て其志を達するを得る能はず、
阿部の死去に伴い佐倉藩主堀田正睦が老中筆頭になった。彼には期待したが、時すでに遅かった。堀田は開国の規模をさだめて天皇を説得し、開国によって列強と正々堂々と競争しようと考えた。これは勘定奉行小栗上野介が考えた路線である。惜しむらくは、無策な阿部正弘が天皇に「どうしましょうか」とお伺いを立てた後だった。すでに流れが変わっていた。
(6)これに次て、井伊閣老あり、亦時勢外交の巳を得さるを知るものゝことくなれども、其政畧は、専ら幕府の威權を復せんとするにありて、其外交に於る、寧ろこれを第二にをくの状あり、加之、條約の勅許を請ふの際、一時の姑息よりして、鎖攘の約を朝廷に結ひ、後來幕府外政上、困難の禍胎となるを致せり
堀田の次に彦根藩主井伊直弼が大老として幕閣トップになった。時勢は「開国やむなし」であることは理解したようであるが、井伊の関心事は「幕府権威の回復」であり、外交は二の次になってしまった。それだけではない。朝廷に対して条約の許しを得る際、その場しのぎの策として鎖国攘夷を約束してしまった。これが禍根の種。時勢からできる訳がない。
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