田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(3-6) ― 子孫が語る。
徳川幕府のNo.1"職業外交官"田邉太一の生き方を尊敬する子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。
(9)されば、春嶽老公の如きは、其藩論は開国にありと稱し、然も奏論する所も、其意に外ならさるか如しといへとも、當時其施政上、云爲に著るゝもの、一として鎖攘の手段ならさるなし、
やっていることが分からなくなった好例は越前藩主松平春嶽である。言っていることとやっていることが違う。自藩の藩士の総意は"開国"にあるといい、自ら開国を主張していたのに、やったことは鎖国攘夷だった。つまり幕府側の人間でありながら、薩長の味方をした。本人がそのことに気がついていなかったのが嘆かわしい。賢公の名が惜しまれる。已ぬる哉。
(10) 板倉閣老にいたりては、其誠愨忠純の質、太平の宰相としては不足なしといへとも、同じく朝意に承順することにのみ力めて、朝意を回するの慮なきものゝごとし
安政の大獄に反対して井伊に罷免された備中松山藩主板倉勝静は、井伊の死後老中に復帰したが、もっとひどい。本人の資質は極めて高かったが、外国が攻めてくるという時期には通用しなかった。天皇の御意志に従うことばかり考え、御意志を変えていただくような工作はできなかった。太平の世ならば、祖父松平定信に負けない善性を敷いたであろうに。資質を惜しむ。
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