田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談(史)から(4-11)
前ブログからつづく。
―●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○―
個人的満足
田邉太一はつぶやく。
<昌平坂学問所で教えてもらった倫理観>
私は"責に任じて"自分のことよりも、国家のことを考えて行動した。これは私の倫理観だった。この倫理観は、昌平坂学問所において儒学者の父、田邉石庵から教えてもらったものだ。責任を果たすとは倫理観に立って自分の仕事をすることだ。幕府時代の上層部に上層部としての責任を果たす気概のある人物が少なかったことは残念だ。だから薩長にやられたのだ。
田邉太一はつぶやく。
<長州に対する個人的エール>
薩摩は嫌いだが、長州は嫌いではない。長州軍の鳥取藩第8番隊長だった北垣国道(後の内務次官、枢密顧問官)が実の娘を甥田邉朔郎にもらってくれといった際に反対しなかった。長州藩騎兵隊の隊員、片山東熊(後の国宝迎賓館設計者)が朔郎の姉をもらってくれと言った際も反対しなかった。長州の人は単純でわかりやすい。決して策略を弄するようなことはなかったから。
田邉太一は更につぶやく。
<長州へのエール、つづく>
甥の朔郎は、長州伊藤博文の作った枠組みの中で生きさせてもらった。岩倉遣米欧の副使の一人、伊藤の働きによって産業革命の重工業発祥の地、スコットランドから数多くの教師を招聘して工部大学校(東大工学部前身)を設立し、学長に幕府時代の私の仲間、大鳥圭介を嵌めてくれた。大鳥は琵琶湖疏水推進者で長州閥の北垣国道に朔郎を推薦してくれた。長州はよい。
田邉太一は更につぶやく。
<学者田邉家の中継ぎを果たしたことへの満足>
薩長の世になったにもかかわらず、没落した幕府旗本田邉家を再興させたことが満足だ。父親代わりになって育てた田邉朔郎が土木で大成功した。朔郎の姉を嫁にだした片山東熊も建築で、私の娘三宅花圃も小説で、その夫、三宅雪嶺も評論で大成功した。老後は、娘花圃のところで好きな漢文の釈読をして静かに暮らそう。外務省退官後の吉原通いを忘れて。
次のブログにつづく。