田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談(史)から(4-9)
前ブログからつづく。
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長州は許すが薩摩は許せない太一。
田邉太一はつぶやく。
<薩摩にはひどい目に会った>
薩長が投げかける無理難題を躱(かわ)すため、私はフランスへ無為の出張をさせられた。外国事情をつぶさに見させてもらったことは有難かったが、外国に拒否されることが明らかに分っている申し入れをわざわざ外国にまでいかされたことはつらかった。徳川昭武に随行した二度目のフランス出張は、薩摩の謀略にあって散々な目にあった。私の薩摩嫌いはここに始まる。
田邉太一はつぶやく。
<薩摩に対する怒り>
薩長に対して徹底抗戦すれば、日本が列強の植民地になる。そんなことが分っているのに、なぜそれを主張したのか。それを明かそう。従來"開国"を主張してきた。もちろん"尊皇開国"である。しかるにいつの間にか"蔑皇開国"にすり替えられてしまった。すり替えたのは、薩長である。とくに薩摩だ。それで怒った。怒った結果が薩長に対する徹底抗戦だった。
田邉太一はつぶやく。
<晩年の態度の理由>
薩長のやり方、とくに薩摩のやり方に対して憤慨していた私にとって、徹底抗戦は"時の勢い"だった。感情的なものだった。しかし感情的になったことを明治になって深く反省した。だから薩長政府に出仕した後でも、吾不閑焉(吾関せずえん)の態度をとった。退官後、福地源一郎と共に吉原遊びにふけり、身代を潰した。自ら恥じるところもあったからである。
田邉太一はつぶやく。
<薩摩への怒りがつづく>
大久保等薩摩のやり方は卑劣である。天皇を欺瞞して東京へ遷都した。最初はちょっと行幸するということだったが、行幸から未だに京都へお帰りにならない。現に京都の人は天皇が御戻りになることを心待ちにしている。薩摩の大久保が京都市民を欺瞞した。桓武天皇以来、1100年も天皇の御座所であった"みやつところ"(都)を江戸に移し申しあげて東の京とした。
次のブログにつづく。