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柳営会とは(17)・・・幕臣子孫の会

「柳営会とは(16)」からつづきます。「柳営会」を簡単に言うと「幕臣子孫の会」です。

私田邉康雄から7代遡った田邉次郎大夫貞斎は、学者として名を成し、江戸名家墓所一覧に荻生徂徠、山鹿素行と共に記載されています。

浄土真宗東本願寺派東本願寺ひばりが丘別院墓地【1 - ハ - 5】田辺家累代の墓所(墓所確認では初代丘忠~六代孫次郎勿堂)の奥の右角に存在する田邉貞斎(墓所確認では三代目)の墓の墓碑に以下のように記載されています。

【表面】
田邉経忠之墓 婦人吉田氏祔
【向かって左側面】
是田邉君之墓也君謂経忠字世篤號貞斎称次郎大夫以享保十一年丙午生于武蔵西大久保郷本姓原氏源晴満次男子也延享四年丁卯田邉藤原丘忠無子乞為嗣寛延四年辛未田邉丘忠翁歿君嗣為後同年三月二十五日為墜士以中川庚之醫士吉田氏之女妻生一女四男其一女夭世子曰克忠即敬忠次行
【裏面】
忠即季忠皆小君重稚禎敏好読書能属文及長博覧史籍終入千坂昌周之門善連歌其為人也礼儀不愆未倹廉貞慎而寡言惜哉君安永二年癸巳閏三月十一日病卒于城址台山下邸宅年四十有八葬于浅草本願寺先塋側克忠嗣為墜士称荘次郎請督銘其墓為督與君固居同邸交遊隆数歳今君先歿哀哉督雖不敏交義不可廃也督既受君知愛不敢拒其請遂為之銘銘曰

【向かって右側面】
嗚呼経忠生倣英雄 連歌安永三年甲牛三月龍山源督莫亮識平○松之○○  田邉克忠 

【訓読文】
田邉経忠の墓 婦人吉田氏を祔す。
是は田邉の君(きみ)の墓。君は経忠といい、字(あざな)は世篤、号は貞斎という。次郎大夫と称す。1726(享保11)年の丙午(ひのえうま)に、武蔵西大久保郷に于(お)いて生(うま)る。本姓が源(みなもと)、原晴満の次男なり。1747(延享4)年、丁(ひのと)卯(う)の年に田邉藤原丘忠は子が無く、君を養子に乞(こ)う。1751(寛延4)年、辛未(かのとひつじ)の年に田邉丘忠翁は歿す。君は丘忠の後を嗣いで同年三月二十五日に墜士となる。中川庚(こう)に住む医師、吉田氏の娘を妻に迎え、女一人と男子四人を生む。女子は夭(おさ)なくして没す。男子は、克忠、敬忠、行忠、季忠。皆小人なるも、君は稚(おさな)きを重んじ、禎(てい)(神の恵み)に敏(さと)く(感謝し)す。読書を好み、能く文を属(つづ)り(書き)、長ずるに及んで、博(ひろ)く史籍を覧(み)る。終に千坂昌周に入門し、連歌を善くす。其の人となりや、礼儀に愆(あやま)たず(正しくし)、倹廉を未(おもん)じ(質素を重んじ)、慎(つつしみ)を貞(ふか)く(慎み深く)してことば寡(すくな)(少な)し。君は1773(安永2)年、癸巳(みずのとみ)、閏三月十一日に城址台山下邸宅に于(お)いて病に卒(たお)る。年四十有八。浅草本願寺先の塋側(墓地)に于(お)いて葬る。克忠が後を嗣いで墜士となる。荘次郎を称し、其の墓の銘を督(とく)す(書く)を請う。君と居を固め、邸(やしき)を同じくして交遊は数歳(ねん)に隆(さかん)にす。君は今、先に歿す。哀哉(ああ)、督す(墓碑を書く)と雖(いえ)ども敏ならず、義に交るを督(み)る。廃れるべからざるなり(これを無にしてはいけない)。督(とく)(墓碑を書くこと)を既に受く。君は愛を知る。敢えて其の請(依頼)を拒まず。遂に之を為す。銘銘に曰く、嗚呼(ああ)、経忠生まれて、英雄の連歌を倣(なら)う。1773(安永3)年三月 龍山源督莫亮識平○松之○○(判読不明)  田邉克忠 

以上、田邉康雄【貞斎(田邉家墓所確認3代目)の子孫(同9代目)】が碑文を写真撮影(全文保管)し、原文を掘り起こして、読(よ)み下す。平成二十四年五月月六日

この「柳営会とは」の項をお読みになって、「柳営会会員資格がある」と思い、かつ、入会したいと思う方は私田邉康雄に御連絡ください。入会資格があるかも知れないと私が思った場合は、柳営会の事務局へ紹介申しあげます。

「柳営会とは(18)」へつづきます。

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