柳営会とは(18)・・・幕臣子孫の会
「柳営会とは(17)」からつづきます。「柳営会」を簡単に言うと「幕臣子孫の会」です。
前回は、私から7代遡った田邉次郎大夫貞斎の墓碑を紹介しました。今回は、5代遡った田邉石庵を紹介します。『大日本人名辞典(三)』講談社、昭和55年8月10日第一刷発行の『タナベ セキアン』の項をそのまま引用します。
田邊石庵 儒者、名は誨輔、字は季徳、號は石庵、通称は新次郎(一に晋二郎に作る)、尾張の人なり。もと村瀬氏、少なうして秦鼎に従いて学ぶ。會々藩士(幕臣の誤り)大番与力田邊次郎太夫(克忠)養うて子と為す。後、昌平黌出役となり出役中甲府徽典館学頭となる。自抄の史多し。當時唐本の舶来極めて少なく、殊に清人の著述は少中の少なり。石庵謂へらく、隣国現今の形勢を知るは急務なりと。清の地志及び清人の詩人の文詩集その他雑書に就き左右採擷(択?)し、以て八百餘人の清朝名臣名士傳を撰す。世に傳ふるところの清名家小傳これなり。また文を学ぶもの或いは近世の文を見る能はざるを憐み、其の正しきものを撰び清の朱竹拕より遡って明の帰震川、王遵岩、唐荊川、王陽明、方正学、宋潜渓の文粋を編せり。著す所他に続左傳合案、史漢合解、国策論文、清名家外傳等あり。また書を弄ぶ。安政三年十二月十二日歿す。年七十六、二子あり長男孫次郎、號は勿庵(堂の誤り)。西洋流花術を以て世に顕はる。早く死す。子あり朔郎といふ。次男太一、號は蓮舟。石庵の墓は浅草區東本願寺本堂の裏にあり(吉田賢輔氏編)。
この「柳営会とは」の項をお読みになって、「柳営会会員資格がある」と思い、かつ、入会したいと思う方は私田邉康雄に御連絡ください。入会資格があるかも知れないと私が思った場合は、柳営会の事務局へ紹介申しあげます。
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