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爆発死亡事故を起こした東ソー塩ビ工場は、先輩エンジニアの安全技術を必要②応じて伝承しているか(4)。

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 ―― 2007年12月に三菱化学エチレンプラントにおいて高温油の漏洩爆発事故があり、作業員が亡くなりました。事業所長が書類送検を受けて有罪判決をうけました。管理不十分とのことです。

―― 原因は初歩的ミスでした。計器室(コントロールルーム)におけるボタン操作ひとつで、現場の重要な弁が開放になる状態のまま現場の修理工事を実施していたそうです。この状態を放置したまま、不用意にボタンを押してしまいました。このように報道されました。

 ―― 昔と異なり、今は事故を起こした現場の責任者が、正に"責任"を問われる時代となりました。管理体制の不備という欠陥の責任を問われるのです。

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京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(2)

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京都の琵琶湖疏水を最初に説明します。拙著「びわ湖疏水にまつわる、ある一族のはなし」のプロローグ(びわ湖疏水の概要)を、言葉つかいの修正等だけ加え、略そのまま紹介します。

―― 琵琶湖疏水とは、今から120年前に作られた、琵琶湖から京都市へ水を運ぶ用水路です。2011(平成23)年の現在、京都市が世界遺産登録を目指しています。第一期工事とも言うべき第一疏水と、後に造られた第二疏水からなります。

―― 第一疏水は、交通、感慨、動力、飲料水確保など多目的です。全長約20キロメートル、流量は毎秒約8立方メートルです。舟が通れる構造をとり、滋賀県大津市から山科を経由して京都市三条蹴上のウエスチン都ホテル京都の前で京都市内に注ぎます。

―― 途中にトンネルが4箇所あり、その総延長は約4キロメートルです。その中で最長のトンネルは、大津・山科間の長等山トンネルであり、約2.5キロメートルです。

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爆発死亡事故を起こした東ソー塩ビ工場は、先輩エンジニアの安全技術を必要②応じて伝承しているか(3)。

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 ―― 塩ビ漏洩の直接原因は、ヨーク弁の破壊でした。しかし根本原因は他にありました。タンクからヨーク(轡)弁に至る導管に元弁が設置されてなかったのです。

 ―― 高圧ガス貯槽ですから、新設時には高圧ガス保安法に従って元弁は設置されていました。ところが使用を重ねるうちに定期修理の際、設備管理の係りの人がこれを撤去したそうです。いわく「長年使用していないから。不要だろう」と。塩ビ重合工場の責任者(課長)はそのことを知りませんでした。

 ―― このような初歩的ミスを見逃したということで、その課長はは書類送検を受け、その結果有罪になったそうです。

 ―― 私の知っている限りにおいては、この事件が「責任者が刑事罰を受けた」事例の最初です。それまでは、原因作業に直接従事した作業員だけが処罰されていました。

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京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(1)

京都の観光名所、南禅寺の水路閣とインクラインを御存知でしょう。琵琶湖疏水の一部です。すでにインクラインも水路閣も当初の使命は終えて観光資源として活用されているものです。

―― インクラインの上に田邉朔郎の立像が建っています。また、平安神宮の西、夷川発電所の前に北垣国道の立像が建っています。

―― この二人が義理の親子であることを御存知でしょうか。北垣国道の長女、静子が田邉朔郎の妻です。

―― そして朔郎の家督を継いだ田邉多聞が私田邉康雄の父親です。即ち北垣国道は私田邉康雄にとって曽祖父に当たります。

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爆発死亡事故を起こした東ソー塩ビ工場は、先輩エンジニアの安全技術を必要②応じて伝承しているか(2)。

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 原因は塩ビモノマーの漏洩着火が原因だったと昨日(2011年15日)の日経新聞朝刊に載りました。これで思いだしたことがあります。30年程前だったと記憶しますが、やはり塩ビモノマーの漏洩着火です。

 ―― 信越化学直江津工場の塩ビモノポリマー工場で爆発火災がありました。タンクに受け入れた塩ビモノマーを重合工程に移送しようとした作業員が、ヨーク(くつわ)形ストップ弁を操作しました。その際、ハンドル回しを使用して無理な力をストップ弁に加えました。

 ―― ストップ弁のヨーク弁部は、その力に耐えきれず破壊しました。その結果、破壊した弁部から大量の塩ビが漏洩しました。

―― 漏洩した塩ビと空気が混合して爆鳴気が漏洩部上空に形成されました。漏洩後何秒か経過したときに静電気によって着火しました。そして大爆発しました。ファイアーボール(火の玉)が発生したのです。ファイアーボールの衝撃波と高熱によって作業員が亡くなりました

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爆発死亡事故を起こした東ソー塩ビ工場は、先輩エンジニアの安全技術を必要②応じて伝承しているか(1)。

「東ソー塩ビ工場で爆発」「山口・周南 火災発生、一人死亡」
これは、昨日(2011年11月14日の日本経済新聞夕刊の見出しです。

「またか」との思いです。

 ―― 一昨年の12月に森田化学の三フッ化窒素工場での爆発死亡事故、昨年(2010年)の1月に横浜の日本カーリットの高圧釜破裂飛翔事故があい続いて発生しました。これに関してブログをかきました。その際、これらの自己の幼稚性を鑑みて、つぎのように書きました。

「今後もこのような事故が続発するであろう」と。

 ―― 今日までの間に津波による福島第一原発事故がありました。この事故の、ある一面をみると幼稚性が否めません。見識の高い方々が数多く関与されているにも拘らず、結果を見ると幼稚性が否定できないのです。

 ―― 今回の東ソー塩ビ工場の事故に関してはまだ原因が発表されていませんが、原因の幼稚性がなければよいと祈念しています。

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片山東熊(国宝迎賓館の設計者)と田邉(辺)朔郎(京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者)が義理の兄弟 ― 姻戚子孫が語る(5)

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―― 片山東熊は、1979(明治12)年に工部大学校を造家科第一期生として卒業し、直ちに工部省へ入省しました。そして1989(明治22)年に宮内省内匠寮に転省しました。そして1904(明治37)年から1915(大正4)年まで内匠寮の長官である内匠頭を拝命していました。

―― 田邉朔郎は、1983(明治16)年の土木科第五期生ですから、二年間だけ片山東熊と田邉朔郎は工部大学校において同窓生だったことになります。

―― 田邉朔郎の姉、鑑子(てるこ)が片山東熊に嫁いだ縁は、おそらく工部大学校での二人の縁であったと私は想像しています。それにしても明治武力革命をしかけた長州軍の人間に対して、負けた徳川幕府の幕臣の娘が嫁に行ったとはおどろきです。しかも戦争から、20年しか経過していないのに。

片山東熊と田邉朔郎の話はいったんここで中断し、明日から朔郎の岳父北垣国道の話をします。北垣国道も長州人です。

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片山東熊(国宝迎賓館の設計者)と田邉(辺)朔郎(京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者)が義理の兄弟 ― 姻戚子孫が語る(4)

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―― 京都琵琶湖疏水の鹿ケ谷支線が南禅寺を横切る際に通過する水路閣を御存知でしょう。ローマ時代を思わせる水路橋です。現在、京都の観光名所として著名です。これは朔郎が東熊に頼んで設計してもらったのではないかと考えています。少なくとも意見を聞いたと考えています。仲の良い義兄弟ですから。

―― もう一つの観光名所、インクラインもご存知でしょう。その下をくぐる人道があります。これは煉瓦巻きで作られています。その煉瓦の巻き方がとても上手です。京都で暮らしていた子供時代に何度もくぐりました。そのつど、その美しさに見とれていました。螺旋形に上手に積み上げています。これも朔郎が片山東熊に相談したと私は思っています。

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片山東熊(国宝迎賓館の設計者)と田邉(辺)朔郎(京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者)が義理の兄弟 ― 姻戚子孫が語る(3)

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―― 皇居内豊明殿の直ぐ横にレンガ作りの煙突があったそうです。地震でもおきたら大変と、宮内省内匠頭(たくみのかみ)を拝命していた片山東熊から田邉(辺)朔郎に相談がありました。朔郎は早速に設計・建設に取り掛かり、1891(明治24)年に完成しました。

―― 約30メートルの鉄製煙突は当時としては断然新記録です。エッフェル塔が完成したのが、その2年前の1889年ですから、鉄製構築物としてはいかに早かったかがお分かりでしょう。

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片山東熊(国宝迎賓館の設計者)と田邉(辺)朔郎(京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者)が義理の兄弟 ― 姻戚子孫が語る(2)

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―― 琵琶湖疎水の中に、片山東熊が設計した建物があります。レンガ作りの小さな建物です。第一疏水京都川の最終トンネルである日ノ岡山トンネルの京都側出口の、トンネルに向かって右側の運河沿いにある現在使用されている"九条山浄水場"取水ポンプ室です。

―― この建物は、京都御所を守るために設置された"防火用水取入れ口"の建物でした。田邉朔郎は、揚程(水を上げる高さ)の大きなポンプがなかった時代に落差圧を利用して高所への散水を可能としたものです。

―― この落差式防火水システムは、宮内省内匠寮(たくみりょう)の長官、内匠頭(たくみのかみ)片山東熊が朔郎に頼んで設計・建設してもらったものです。1912(明治45)年に完成しました。

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片山東熊(国宝迎賓館の設計者)と田邉(辺)朔郎(京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者)が義理の兄弟 ― 姻戚子孫が語る(1)

さる今週の日曜日(11/6)、国宝迎賓館を拝観しました。はがきで申し込んだ結果、当ったものです。生まれて初めての拝観でした。大感激しました。

―― 家内と二人で申しこみ、同時に娘も家内と二人で申し込みました。すると同じ日に2件とも当たりました。ですから、三人で拝観できました。娘の田邉寛子は早稲田大学の理工学部建築の修士をでた建築エンジニア(一級建築士)ですから、京都大学工学部燃料化学の修士をでた化学エンジニアの私以上に興味をもっているようです。

―― 片山東熊は、国宝迎賓館の前身、赤坂離宮の設計・建設者です。京都の命の水、琵琶湖疏水の設計・建設者の田邉朔郎の姉、鑑子(てるこ)が嫁に行きました。ですから片山東熊と田邉朔郎とは義兄弟です。

―― 仲のよい二人は、お互いに助け合って仕事をしました。そして東熊は建築、朔郎は土木の、歴史に残る実績を残しました。その二人三脚の姿を田邉朔郎の子孫(直系の孫)であり、片山東熊の姻戚者である私、田邉康雄が以下のブログで紹介します。

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田辺(田邉)太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-26)

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<幕臣への道>
徳川幕府の幕臣は世襲制だった。儒学者の家、俸禄200石の家に生まれた私ではあったが、兄の家籍に属する「厄介の身」だった。だから私には身分取り立ての機会は本来皆無だった。次男以下が徳川の家来、即ち幕臣になるには、子のいない幕臣と養子縁組するしか道はなかった。しかし私は自力で幕臣になった。幕末動乱の世だから可能だった。

<幕府海軍伝習所入学と語学>
私は甲府徽典館の教授を辞めて長崎に行き、幕府の海軍伝習所に入所した。私は三期生だった。ここでオランダ海軍から派遣された教授達に航海術、造船学、機関学、算術等をオランダ語によって習ったが、内容よりも習ったオランダ語がその後大いに役立った。後、外国との交渉のため、必要に迫られて英語とフランス語をマスターした。清国とは筆談で苦労はしなかった。

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田辺(田邉)太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-25)

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<父親の素性>
父石庵は尾張の人であり、元は村瀬誨輔といった。徳川尾張藩の藩校明倫館において秦鼎に漢学を学んだ儒者だった。村瀬の名で上梓されている書籍が少なくない。後に江戸に遊学した際、雑学者田邉貞斉に養われて田邉姓に改めた。頼山陽と親しく交友があり、彼が日本外史を書くときに、父石庵に種々の調査依頼をし、その問合せ書簡が甥の朔郎家に保管されている。

<甲府代官の娘と結婚>
父石庵は幕府の昌平坂学問所の教授方出役となった。程なくして幕府直轄地甲斐の国の学問所、甲府徽典館の学頭となった。15歳の私は父に誘われて徽典館へ同行した。後年教授になった。この時の縁で清兵衛の娘己巳子と結婚した。己巳子の兄は、荒井郁之助であり、以後戊辰戦争まで共に幕府のために働いた。親戚縁者の絆で世の中を動かしたのだ。

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田辺(田邉)太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-24)

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自分の生い立ちに関して田邉太一はつぶやく。
<田邉家は代々学者家>
私は三河譜代の田辺家、儒学者田邉石庵の次男に生まれた。父は昌平坂学問所の教授から、甲府徽典館の学頭となり、甲府勤番幕臣師弟の教育を受け持った。石庵の養祖父田邉貞斉も学者であり、江戸名家墓所一覧に記載されている。浅草本願寺(後の東京本願寺)に、六代遡った田邉菊忠から父田邉石庵まで埋葬されている。

<伝説の祖先>
紀州田辺の熊野別当堪僧、即ち田邉堪僧が祖先だといわれている。堪僧は熊野水軍をもっていた。そして源平合戦において源氏に加勢して壇ノ浦の大勝利をもたらした。堪僧の祖先は歌人藤原定家である。よって田邉家の氏が藤原である。鎌倉幕府が開らかれた際、田邉堪僧の子孫が鎌倉にはせ参じ、室町、戦国を経て徳川の御家人になったと伝承される。

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田辺(田邉)太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-23)

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自分の持論に関して田邉太一はつぶやく。
<もうひとつの幕末>
ペリー来航はオランダ人を通じて一年前から分かっていた。だから国是を開国と定め、そのための港湾の準備をし、ペリーが来たときにそのことを通告すればそれで何事もなかった。そうすれば貿易で現金を稼ぎ、小栗上野介の路線にしたがって軍備増強して別の形の幕末があった。阿部正弘が無策のまま朝廷に伺いを立てたものだから、薩長に付け込まれた。

<横浜開港で現金稼ぎ>
勘定奉行小栗上野介は、現金がないと最新式武器の購入ができないことをよく知っていた。だから阿部正弘が幕府直轄地に限って"開港"と国是を定めて諸藩に通告すれば、それでよかった。開港地に貿易市場を開いて税金を徴収し、幕府自らも貿易して現金を稼ぎ、江戸城の金庫を豊かにする。これを背景にして英国/フランスから武器を購入することができた。

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