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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(3-8) ― 子孫が語る。

徳川幕府のNo.1"職業外交官"田邉太一の生き方を尊敬する子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。

(13)故に安政巳來慶應の末にるまてを通觀し其事實に顯るゝものを鑒みて予は断じていはんとす、幕府には外交のことなしたゝ朝意を奉し鎖攘をはかりて遂さる跡のみと
ペリー来航以来、幕末に至るまでを通して見ると、私は幕府上層部を弾劾する。幕府上層部には外交を語る資格はない。天皇の御意向に沿って、なるほどその御意向は薩長が誘導したものであったが、外国人を打ち払って鎖国を継続しようと努力をし、悲しいことにはその努力が報われなかった軌跡だけが残ったと。これを言って気分がさっぱりした。まことに爽快である。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(3-7) ― 子孫が語る。

徳川幕府のNo.1"職業外交官"田邉太一の生き方を尊敬する子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。

(11) 松平總裁のこときは、やゝ気魄あり尋常紈袴輩にあらすといへとも時勢を識るの見なく殆とまたかの浪士輩に傀儡使されたるものにして、決して濟世の器ならず、
川越藩主松平直克政治総裁は、気骨のある人物で"お坊ちゃん"ではなかったが、時の流れを見る目がなかった。幕府にチャンスがあるという洞察力にとぼしく、薩長に"いいように"利用されてしまった。このような無能者を政治総裁に据えなければなかった幕府上層部のお粗末さを嘆く。太平に慣れた幕府上層部の人材不足が薩長による明治武力革命をまねいたのだ。

(12)中間小笠原、阿部、(豊後守)松前閣老のこときは、頗る開国の主義を持し、外交の外交た
る所以を知るものゝごときも、また時勢の沮する所、前疐後跋、その志を遂る事を得す、末年やゝその方を得るに及ひし時は、既に幕府運去の秋にあり、
老中を任命された唐津藩主小笠原壱岐守長行、白川藩主阿部豊後守正外、蝦夷松前藩主松前伊豆守崇広等は、開国の必要性を知り、外交の"何たるか"を知っていたようであるが、残念ながら歴史舞台への登場が遅かった。すでに薩長の目論む方向に政治は動いていた。幕府上層部には薩摩の大久保のような策士がいなかった。小栗上野介の出番が遅すぎた。なかった。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(3-6) ― 子孫が語る。

徳川幕府のNo.1"職業外交官"田邉太一の生き方を尊敬する子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。

(9)されば、春嶽老公の如きは、其藩論は開国にありと稱し、然も奏論する所も、其意に外ならさるか如しといへとも、當時其施政上、云爲に著るゝもの、一として鎖攘の手段ならさるなし、
やっていることが分からなくなった好例は越前藩主松平春嶽である。言っていることとやっていることが違う。自藩の藩士の総意は"開国"にあるといい、自ら開国を主張していたのに、やったことは鎖国攘夷だった。つまり幕府側の人間でありながら、薩長の味方をした。本人がそのことに気がついていなかったのが嘆かわしい。賢公の名が惜しまれる。已ぬる哉。

(10) 板倉閣老にいたりては、其誠愨忠純の質、太平の宰相としては不足なしといへとも、同じく朝意に承順することにのみ力めて、朝意を回するの慮なきものゝごとし
安政の大獄に反対して井伊に罷免された備中松山藩主板倉勝静は、井伊の死後老中に復帰したが、もっとひどい。本人の資質は極めて高かったが、外国が攻めてくるという時期には通用しなかった。天皇の御意志に従うことばかり考え、御意志を変えていただくような工作はできなかった。太平の世ならば、祖父松平定信に負けない善性を敷いたであろうに。資質を惜しむ。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(3-5) ― 子孫が語る。

徳川幕府のNo.1"職業外交官"田邉太一の生き方を尊敬する子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。

(7) これよりの後、安藤閣老のこときは、其天資の聡明と、應變の機智に富めるより、外交上やゝ見るべきものあるかことしといへとも、畢竟井伊元老の後を承けて、かの鎖攘の息攘を奈何とするも能はす、剰へ、和宮降嫁の事よりして、鎖攘の預約、益固く朝廷との間に結ばれたるを見る、
井伊の後の幕閣トップは老中對馬守安藤信正だった。安藤は生まれつき聡明であり、臨機応変の心得をもっていたので外交上少しは見るべきものがあったが、井伊が天皇に約束した鎖国攘夷の縛りはどうすることもできなかった。その上に天皇の妹、和宮の将軍家への嫁入りを迎えて、益々天皇の御希望、鎖国攘夷を硬く約束する羽目に陥ってしまった。見ていて苦しい。

(8) ここに於て、幕府の困厄彌甚だしを生せり、これよりその後、幕府は朝廷の譴責と浪士の横議との制せられ、首を畏れ尾を畏れ、外国と朝廷との間に介して、彷徨行ところを知らず、其志す所は如何の所にあるやを知らすといへとも、其圖る所行ふところ、一として鎖攘をなし遂け、以て朝意を達せんとするにあらさるはなし、
外国から受ける開国圧力と、天皇から受ける攘夷との板ばさみになった幕府は哀れだった。幕府は薩長の策略によって右往左往させられ、何にか知らねど恐れおののき、外国と天皇との間をうろうろと彷徨い、行ったことは結局、鎖国攘夷を成し遂げて天皇の御意志に沿おうという政策になってしまった。自分で自分のやっていることが分からなくなってしまったのだ。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(3-4) ― 子孫が語る。

徳川幕府のNo.1"職業外交官"田邉太一の生き方を尊敬する子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。

(5)而して堀田閣老が 次て其事に當るにあたりては、平生の信する所を以て、一切開國の規模を定め、朝廷に啓沃して、以て我國をして萬國と并立し、其交際塲裹に立しめんとの卓見あり、其議論の正大公明なるは、天晴濟時の良相といふべしといへども、勢の不可なる、左支右吾以て其志を達するを得る能はず、
阿部の死去に伴い佐倉藩主堀田正睦が老中筆頭になった。彼には期待したが、時すでに遅かった。堀田は開国の規模をさだめて天皇を説得し、開国によって列強と正々堂々と競争しようと考えた。これは勘定奉行小栗上野介が考えた路線である。惜しむらくは、無策な阿部正弘が天皇に「どうしましょうか」とお伺いを立てた後だった。すでに流れが変わっていた。

(6)これに次て、井伊閣老あり、亦時勢外交の巳を得さるを知るものゝことくなれども、其政畧は、専ら幕府の威權を復せんとするにありて、其外交に於る、寧ろこれを第二にをくの状あり、加之、條約の勅許を請ふの際、一時の姑息よりして、鎖攘の約を朝廷に結ひ、後來幕府外政上、困難の禍胎となるを致せり
堀田の次に彦根藩主井伊直弼が大老として幕閣トップになった。時勢は「開国やむなし」であることは理解したようであるが、井伊の関心事は「幕府権威の回復」であり、外交は二の次になってしまった。それだけではない。朝廷に対して条約の許しを得る際、その場しのぎの策として鎖国攘夷を約束してしまった。これが禍根の種。時勢からできる訳がない。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(3-3) ― 子孫が語る。

徳川幕府のNo.1"職業外交官"田邉太一の生き方を尊敬する子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。

(3)英國公使アールコック三年在日本記事中、その事を記して、曰く千八百四十五年、英國か初て支那と戦へる以來、蘭人は世界必然の變遷を告知して、日本の耳目を開きたり、外人が日本に入るの道を準備せし、和蘭政府の公平の處置は、諸國より感謝を受るの理あり、就中、千八百五十四年ぺルリ提督が開港の功を奏したるは、蘭人豫告の力、與りて功なくんばあらず
駐日英国公使は「日本三年在住記」の中で言う。曰く「オランダ政府は、『アヘン戦争の二の舞にならないように』と日本に1年も前から繰り返し忠告した。日本においてオランダ以外の欧米列強国が活動する道を開いたことは、列強の一員として感謝している。オランダのお蔭でペリーは日本を開国させることができた。オランダ政府に感謝しても感謝し足りない」と。

(4)これ我國の國を開きしは、かの和蘭國王よりの忠告に源せしものとして、論せるものなり、されど、其實は、前にも説けるごどく、全くしかりとはいふ能はざるものなれども、理を推し勢を察すれば、自然の運此のごとくなるものを見るべし、
オールコックは、オランダ忠告のお蔭で日本は開国できたといっている。しかしこれは少し言いすぎであろう。日本の開国は時流に逆らうことのできない処置だった。即ち開国そのものはオランダ政府の通告がなくてもやっていた。それにしてもペリー来航を1年も前に通告してくれたにも拘わらず、情報を活かし切れなかった阿部正弘の無策を嘆く。繰言になるが。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(3-2) ― 子孫が語る。

田邉太一をよく知る徳川幕府の外交官田邉太一の子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。

前ブログからつづきます。この文章自体が田邉太一のつぶやきです。行間を読んでこの「つぶやき」の真意を紹介しましょう。書き出しの先頭に付いている数字は、本文の枠の上に付いている数字に同じです。この数字によって引用箇所を明確にしました。

(1)扨幕府柄政の末にありて、外交に関する事、余耳目がの及ぶところ、略上に陳るがごとし、而してこゝに筆を擱に臨みて一言せんと欲するものあり、他なし、幕府の外人に接せしは、余をしてこれをいはしめは、これを外交とはいふべからず、其跡につきてこれを見るに、徹頭徹尾鎖國攘夷を謀りて遂得ざるの歴史たり、
幕府外交の生き字引である私が見聞きしたことはおよそ以上のようなものである。誇張や捏造はせず、ありのままを紹介した。これですっきりした。終わりに当たって言わしてもらおう。幕府外交は、外交と呼べるものではなかった。海の向こうの外国人よりも京都におられる天皇の御意向を尊重し、鎖国攘夷を図って、それが出来なかった悲しい歴史であった。

(2)初嘉永の末、阿部閣老が柄政の際にありて、全く開國に意あるが如くなりしも、世に活眼の士乏しく、この鴻圖を翼賛すべきものなく、却てこれを沮するの族多く、閣老また責に任じて、敢て断するの勇なく、事遂に姑息に陥り、國是以て定まらず
1853(嘉永6)年ペリーが初回来航した際、老中筆頭阿部正弘は"開国"の必要性を感じていたようだが、他の幕閣には阿部の意見を支えるような見識のある人物がいなかった。それどころか、"鎖国"継続を主張するものが多かった。阿部は敢えて開国を推進するような勇気がなかった。だから姑息に流れ、因習を尊んでしまった。開国富国の大きなチャンスを逃がした。

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京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(19)

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「ままならぬは加茂の水と法師」
 と、後白河法皇が言われました。雨が降れば洪水になるのに、日照りのたびに水不足に見舞われた土地柄です。

 ―― 現在の京都市の発展は、琵琶湖疏水なしには考えられません。琵琶湖の水がなければ、今の京都市は奈良市と同じ程度の地方都市にとどまったでしょう。

―― 琵琶湖疏水がなければ、理系ノーベル賞を数多くだす京都大学はなかったでしょう。つまり大阪に第二の帝国大学をとられたでしょう。ノーベル賞をだした島津製作所もなかったでしょう。現在のハイテク都市京都はなかったでしょう。

 ―― 大きな寺や神社は別にして、中小の寺社は経営が成り立たず、消滅したでしょう。そして普通の都市になり、その結果、大東亜戦争末期には米軍の空襲目標になったでしょう。琵琶湖疏水は、北垣国道と田邉朔郎から京都市民への大きなプレゼントです。


一区切りしたので、一旦ここで終わります。いずれつづきを書く予定です。

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京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(18)

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北垣国道は、優れた経営リーダーで、乏しい経営資源を集中投入しました。前任者の槇村正直知事は総花的殖産興業政策をとり、その結果、京都府営事業が数多くできていました。北垣国道はそれらをすべて民間に払い下げて身軽になりました。そして琵琶湖疏水に集中しました。

―― 総工費125万円どのくらい価値のある金額だったのでしょうか。その当時の国家予算が7000万円だったそうですから、2%弱です。これを京都市民が負担したのですから、大変なものでした。

―― たとえて言えば、上越新幹線を受益者の新潟県だけで、あるいは瀬戸大橋を受益者の香川県だけで政府の反対を押して建設したようなものでした。しかも技術的見通しのない時代に。

「日本人は安全と水は只と思っている」
 と、言われています。

 ―― しかし京都の人々は自分たちの金で水を確保しました。今、京都市には深刻な水不足の心配はありません。巨大な水がめ、琵琶湖疏水があるからです。

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京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(16)

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よく琵琶湖疏水については、「外国人お雇い技師が不可能と言うのを敢えて可能にした」と紹介されています。しかし私はちょっとオーバーではないかと思います。

―― 本当のところは、内務省土木局(戦後内務省が解体されて建設省)のお雇い外国人技師のヨハネスデレーケが1884(明治17)年2月27日付けで土木局長に提出した意見書の中で「トンネルがあるから京都府がいうように費用の面でそんなに安くはできなよ。因みにヨーロッパの例は、これこれしかじか。工事はお金のかかるもの。だから結果的に大変な費用がかかってペイするかどうか疑問。しかし、田邉朔郎の描いた等高線図(日本の地図では始めて)だけは見事である」というのが真相です。即ち「工事はできないが、計画だけは見事」と皮肉られたのです。

―― この意見書の影響でしょうか。最初京都府が60万円(現在の6000億円に相当)で計画していたのが、中央政府から追加工事を命令されて125万円(現在の1兆2500億円)に修正されました。

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最近の社内技術者研修の実績 ― 安全大会、安全講演、危険予知KYK、行動災害防止、設備災害防止(9)。

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 2011年9月17日、建設業関連の太平エンジニアリング様から電話を受けました。安全大会における安全講演をやってほしいと。その前日の2011年9月16日に建災防東京支部北多摩分会で安全講演をした翌日でした。

―― 建災防から評判を聞き、建災防が紹介を受けた八王子労働基準協会から紹介を受けたので太平グループにおける安全大会の安全講演をやってほしいと。

――  大変うれしい話でした。芋ずる式にリピートがつながってくるのですから。講師としては大変うれしいです。

―― 今回は労働安全衛生コンサルタント会経由ではなくて、私に直接でした。しかしコンサルタント会を通していただくようにお願いしました。

講演時間は、60分であり、コンサルタント会が提示した講演料は、70,0000円だったと聞いています。まだ受領していませんが。私はこれで承りました。

一旦終了して次の案件があった場合に書きます。

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京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(15)

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幕末明治の倒幕志士としての北垣国道を前ブログまでにおいて紹介しました。

―― 私は以下のように考えます。
北垣国道は志士として活躍した京都。そのときの思い出のある京が衰退していることを見るに忍びなかったものと思われます。

―― 明治の初めに明治天皇が東京に行幸されました。そして帰って来られませんでした。これにより、40万人の人口が20万人に減少しました。この時期に当たって北垣国道が第三代京都府伊(知事のこと)として着任しました。

―― これを見た北垣国道は、京都の復興を計画しました。

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最近の社内技術者研修の実績 ― 安全大会、安全講演、危険予知KYK、行動災害防止、設備災害防止(8)。

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今年の平成23年6月10日に社団法人日本労働安全衛生コンサルタント会東京支部から八王子労働基準協会様が八王子地区安全大会での安全講演の講師公募がありました。応募した結果、当選しました。実施した結果大きなご満足を得ました。

―― するとコンサルタント会からリピートを頂戴しました。建災防(建設業災害防止協会東京支部北多摩分会でした。内容は、八王子労働基準協会で実施したものと同一を希望するとのことでした。

―― 講演時間は、60分でコンサルタント会が提示した講演料は、70,0000円でした。これで承りました。

―― 2011年9月16日、立川の会場で受講者約100名の前で安全講演をしました。これも大きな御満足を得て再度のリピートをコンサルタント会から頂きました。それに関しては次ブログで照会します。
 
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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(3-1)

私田邉康雄は、NPO法人米欧亜回覧の会の会員です。この度、誘われる機会があったので同会ウエブサイトにこのタイトルで投稿することにしました。第一回はさる7月(2001年)に投稿しました。第二回は、3ケ月を経た10月に投降しました。そして第三回目を去る11月18日に投稿しました。以下、第三回の内容を以下に紹介します。投稿した原文のままです。

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ノンフィクション:蓮舟田邉太一のつぶやき(3)
~ 翁の著書「幕末外交談」から ~

前回は幕末外交談の「まえがき」を紹介しました。「あとがき」はありませんが、本文の終わりの直前に以下の記載があります。内容は"あとがき"とも言えるものですから、ここに紹介します。532頁の9行目から535頁の4行目までを紹介します。原文の使用漢字はそのままであり、改行位置もそのままです。

(1)扨幕府柄政の末にありて、外交に關する事、余が耳目の及ぶところ、略上に陳るがごとし、而してこゝに筆を擱に臨みて一言せんと欲するものあり、他なし、幕府の外人に接せしは、余をしてこれをいはしめは、これを外交とはいふべからず、其跡につきてこれを見るに、徹頭徹尾鎖國攘夷を謀りて遂得ざるの歴史たり、(2)初嘉永の末、阿部閣老が柄政の際にありて、全く開國に意あるが如くなりしも、世に活眼の士乏しく、この鴻圖を翼賛すべきものなく、却てこれを沮するの族多く、閣老また責に任じて、敢て断するの勇なく、事遂に姑息に陥り、國是以て定まらず(3)英國公使アールコック三年在日本記事中、その事を記して、曰く千八百四十五年、英國か初て支那と戦へる以來、蘭人は世界必然の變遷を告知して、日本の耳目
を開きたり、外人が日本に入るの道を準備せし、和蘭政府の公平の處置は、諸國より謝を受る
 の理あり、就中、千八百五十四年ぺルリ提督が開港の功を奏したるは、蘭人豫告の力、與りて功 なくんばあらず、(4)これ我國の國を開きしは、かの和蘭國王よりの忠告に源せしものとして、論せるものなり、されど、其實は、前にも説けるごどく、全くしかりとはいふ能はざるものなれども、理を推し勢を察すれば、自然の運此のごとくなるものを見るべし、阿部閣老が、此機を用て、其勢を制するに及ばざりしは、(5)實に遺憾とするに足れり、而して堀田閣老が 次て其事に當るにあたりては、平生の信する所を以て、一切開國の規模を定め、朝廷に啓沃して、以て我國をして萬國と并立し、其交際塲裹に立しめんとの卓見あり、其議論の正大公明なるは、天晴濟時の良相といふべしといへども、勢の不可なる、(6)左支右吾以て其志を達するを得る能はず、これに次て、井伊閣老あり、亦時勢外交の巳を得さるを知るものゝことくなれども、其政畧は、専ら幕府の威權を復せんとするにありて、其外交に於る、寧ろこれを第二にをくの状あり、加之、條約の勅許を請ふの際、一時の姑息よりして、鎖攘の約を(7)朝廷に結ひ、後來幕府外政上、困難の禍胎となるを致せり、これよりの後、安藤閣老のこときは、其天資の聡明と、應變の機智に富めるより、外交上やゝ見るへきものあるかことしといへとも、畢竟井伊元老の後を承けて、かの鎖攘の息攘を奈何とするも能はす、剰へ、和宮降嫁の事よりして、(8)鎖攘の預約、益固く朝廷との間に結ばれたるを見る、ここに於て、幕府の困厄彌甚だしを生せり、これよりその後、幕府は朝廷の譴責と浪士の横議との制せられ、首を畏れ尾を畏れ、外国と朝廷との間に介して、彷徨行ところを知らず、其志す所は如何の所にあるやを知らすといへとも、其圖る(9)所行ふところ、一として鎖攘をなし遂け、以て朝意を達せんとするにあらさるはなし、されば、春嶽老公の如きは、其藩論は開国にありと稱し、然も奏論する所も、其意に外ならさるか如しといへ(10)とも、當時其施政上、云爲に著るゝもの、一として鎖攘の手段ならさるなし、板倉閣老にいたりては、其誠愨忠純の質、太平の宰相としては不足なしといへとも、同じく朝意に承順することにのみ力め(11)て、朝意を回するの慮なきものゝごとし、松平總裁のこときは、やゝ気魄あり尋常紈袴輩にあらすといへとも時勢を識るの見なく殆とまたかの浪士輩に傀儡使されたるものにして、決して濟世の器(12)ならず、中間小笠原、阿部、(豊後守)松前閣老のこときは、頗る開国の主義を持し、外交の外交たる所以を知るものゝごときも、また時勢の沮する所、前疐後跋、その志を遂る事を得す、末年やゝ(13)その方を得るに及ひし時は、既に幕府運去の秋にあり、故に安政巳來慶應の末にるまてを通觀し其事實に顯るゝものを鑒みて予は断じていはんとす、幕府には外交のことなしたゝ朝意を奉し鎖攘をはかりて遂さる跡のみと

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京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(14)

前ブログからつづきます。

以後、1868(明治2)年に弾正台巡察、1870(明治3)年に北海道開拓権判事、1871(明治4)年に鳥取県少参事、鳥取藩士として堂々の凱旋です。
1873(明治6)年に一旦退官して野に下り、自由民権運動に身を寄せました。なんと血の気が多いことでしょうか。しかし1875(明治8)年には元老院書記官として呼び戻されました。1877(明治10)年に熊本県大書記官。ここで西南戦争の後始末で業績を上げました。

1878(明治11)年に内務省書記官、1879(明治12)年に高知県知事(県令)、1880(明治13)年に徳島県を高知県から分離独立させて徳島県知事を兼任。そして1881(明治14)年に倒幕志士とし刀を振り回した思い出の深い京の地の、京都府知事(府伊)を拝命しました。このとき北垣国道は、44歳でした。ちなみに申し添えます。当時の知事は、中央の内務大臣が任命する内務省の官吏でした。この状態は大東亜戦争敗戦までつづきました。

次ブログへつづきます。

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