私田邉康雄は、NPO法人米欧亜回覧の会の会員です。この度、誘われる機会があったので同会ウエブサイトにこのタイトルで投稿することにしました。第一回はさる7月(2001年)に投稿しました。第二回は、3ケ月を経た10月に投降しました。そして第三回目を去る11月18日に投稿しました。以下、第三回の内容を以下に紹介します。投稿した原文のままです。
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ノンフィクション:蓮舟田邉太一のつぶやき(3)
~ 翁の著書「幕末外交談」から ~
前回は幕末外交談の「まえがき」を紹介しました。「あとがき」はありませんが、本文の終わりの直前に以下の記載があります。内容は"あとがき"とも言えるものですから、ここに紹介します。532頁の9行目から535頁の4行目までを紹介します。原文の使用漢字はそのままであり、改行位置もそのままです。
(1)扨幕府柄政の末にありて、外交に關する事、余が耳目の及ぶところ、略上に陳るがごとし、而してこゝに筆を擱に臨みて一言せんと欲するものあり、他なし、幕府の外人に接せしは、余をしてこれをいはしめは、これを外交とはいふべからず、其跡につきてこれを見るに、徹頭徹尾鎖國攘夷を謀りて遂得ざるの歴史たり、(2)初嘉永の末、阿部閣老が柄政の際にありて、全く開國に意あるが如くなりしも、世に活眼の士乏しく、この鴻圖を翼賛すべきものなく、却てこれを沮するの族多く、閣老また責に任じて、敢て断するの勇なく、事遂に姑息に陥り、國是以て定まらず(3)英國公使アールコック三年在日本記事中、その事を記して、曰く千八百四十五年、英國か初て支那と戦へる以來、蘭人は世界必然の變遷を告知して、日本の耳目
を開きたり、外人が日本に入るの道を準備せし、和蘭政府の公平の處置は、諸國より謝を受る
の理あり、就中、千八百五十四年ぺルリ提督が開港の功を奏したるは、蘭人豫告の力、與りて功 なくんばあらず、(4)これ我國の國を開きしは、かの和蘭國王よりの忠告に源せしものとして、論せるものなり、されど、其實は、前にも説けるごどく、全くしかりとはいふ能はざるものなれども、理を推し勢を察すれば、自然の運此のごとくなるものを見るべし、阿部閣老が、此機を用て、其勢を制するに及ばざりしは、(5)實に遺憾とするに足れり、而して堀田閣老が 次て其事に當るにあたりては、平生の信する所を以て、一切開國の規模を定め、朝廷に啓沃して、以て我國をして萬國と并立し、其交際塲裹に立しめんとの卓見あり、其議論の正大公明なるは、天晴濟時の良相といふべしといへども、勢の不可なる、(6)左支右吾以て其志を達するを得る能はず、これに次て、井伊閣老あり、亦時勢外交の巳を得さるを知るものゝことくなれども、其政畧は、専ら幕府の威權を復せんとするにありて、其外交に於る、寧ろこれを第二にをくの状あり、加之、條約の勅許を請ふの際、一時の姑息よりして、鎖攘の約を(7)朝廷に結ひ、後來幕府外政上、困難の禍胎となるを致せり、これよりの後、安藤閣老のこときは、其天資の聡明と、應變の機智に富めるより、外交上やゝ見るへきものあるかことしといへとも、畢竟井伊元老の後を承けて、かの鎖攘の息攘を奈何とするも能はす、剰へ、和宮降嫁の事よりして、(8)鎖攘の預約、益固く朝廷との間に結ばれたるを見る、ここに於て、幕府の困厄彌甚だしを生せり、これよりその後、幕府は朝廷の譴責と浪士の横議との制せられ、首を畏れ尾を畏れ、外国と朝廷との間に介して、彷徨行ところを知らず、其志す所は如何の所にあるやを知らすといへとも、其圖る(9)所行ふところ、一として鎖攘をなし遂け、以て朝意を達せんとするにあらさるはなし、されば、春嶽老公の如きは、其藩論は開国にありと稱し、然も奏論する所も、其意に外ならさるか如しといへ(10)とも、當時其施政上、云爲に著るゝもの、一として鎖攘の手段ならさるなし、板倉閣老にいたりては、其誠愨忠純の質、太平の宰相としては不足なしといへとも、同じく朝意に承順することにのみ力め(11)て、朝意を回するの慮なきものゝごとし、松平總裁のこときは、やゝ気魄あり尋常紈袴輩にあらすといへとも時勢を識るの見なく殆とまたかの浪士輩に傀儡使されたるものにして、決して濟世の器(12)ならず、中間小笠原、阿部、(豊後守)松前閣老のこときは、頗る開国の主義を持し、外交の外交たる所以を知るものゝごときも、また時勢の沮する所、前疐後跋、その志を遂る事を得す、末年やゝ(13)その方を得るに及ひし時は、既に幕府運去の秋にあり、故に安政巳來慶應の末にるまてを通觀し其事實に顯るゝものを鑒みて予は断じていはんとす、幕府には外交のことなしたゝ朝意を奉し鎖攘をはかりて遂さる跡のみと
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