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男爵枢密顧問官正二位北垣国道が田邉朔郎の岳父の記事一覧

京都「在住・出身」の方へ  NHK歴史秘話ヒストリアを見てください。

NHK大河ドラマ「八重の桜」を御覧になっている方に案内申し上げます。「八重」の活躍舞台は、会津戦争から京都に移ります。明治天皇が東京に御移りになって衰退した京都の復興計画の最中でした。これに八重の兄、山本覚馬が尽力しました。八重は覚馬に呼ばれてこの時期の京都に移りました。「女紅場」で働きましたが、キリスト教信者の新島襄との出会い、婚約したために馘首されました。仏教勢力の圧力によるものでした。

「女紅場」の末裔が京都府立鴨沂高校であり、現在その歴史的建造物の保存活動が京都において進められており、私も支援していることは、このFBで何度も紹介している通りです。

京都復興の締めくくりは、琵琶湖から水を引く運河の建設です。これを京都では「疏水」と言います。この琵琶湖疏水の「設計・工事」担当者は田邉朔郎といい、私の祖父です。この度、NHKから依頼を受けて我が田辺家から朔郎の録音盤を貸出しました。疏水建設40周年(1930年)に当たって当時のNHKから全国に放送されたものです。

なお、疏水工事の財源を確保して工事を推進したのは、第三代京都府知事北垣国道と云い、私の曽祖父です。国道は「同志社」設立にも協力しました。リスト教を排除する仏教関係者の反対の声が上がる中、長女、静子を入学さて支援姿勢を明確にしました。これにより、「同志社」計画は円滑化しました。静子は後に田邉朔郎と結婚し、私の父親田邉多聞を生みました。

北垣国道知事京都復興に成功し、北海道の開拓にも成功して後に内務省次官から男爵枢密顧問官となり、思い出の地「京都」で没しました。墓は金戒光明寺(黒谷)にあります。


明後日(2013年8月28日【水】)午後10時から始まるNHK総合歴史秘話ヒストリアにおいて貸し出した録音盤により祖父田邉朔郎の声を聴いていただけるものと期待しております。なお私の理解によりますと、歴史秘話ヒストリアは、大河ドラマの背景を解説する番組であることが多いので、今回もそれだと思います。

NHKのホームページによると以下の記載がありました。

<番組内容>
明治初め、千年の都・京都は首都の座を東京に奪われ大ピンチに。起死回生の策は外国人を呼び込む博覧会と町あげてのおもてなし作戦。美しき都・京都の知られざる復興物語。

<詳細>
年間50000万もの観光客でにぎわう美しき都・京都。しかし、明治初め、京都は幕末の動乱で焼け野原となり、天皇が東京に移ったことで荒廃していた。復興のために人々が考えたのは外国人客を呼び込む「大博覧会」。さらに外国人専用特別メニューを作るなど町をあげてのおもてなし作戦を展開。仕上げは予算1兆円の大運河プロジェクト。それは京都独特の美しい景観の礎となった。千年の都・京都の知られざる復興物語。

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京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(19)

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「ままならぬは加茂の水と法師」
 と、後白河法皇が言われました。雨が降れば洪水になるのに、日照りのたびに水不足に見舞われた土地柄です。

 ―― 現在の京都市の発展は、琵琶湖疏水なしには考えられません。琵琶湖の水がなければ、今の京都市は奈良市と同じ程度の地方都市にとどまったでしょう。

―― 琵琶湖疏水がなければ、理系ノーベル賞を数多くだす京都大学はなかったでしょう。つまり大阪に第二の帝国大学をとられたでしょう。ノーベル賞をだした島津製作所もなかったでしょう。現在のハイテク都市京都はなかったでしょう。

 ―― 大きな寺や神社は別にして、中小の寺社は経営が成り立たず、消滅したでしょう。そして普通の都市になり、その結果、大東亜戦争末期には米軍の空襲目標になったでしょう。琵琶湖疏水は、北垣国道と田邉朔郎から京都市民への大きなプレゼントです。


一区切りしたので、一旦ここで終わります。いずれつづきを書く予定です。

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京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(18)

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北垣国道は、優れた経営リーダーで、乏しい経営資源を集中投入しました。前任者の槇村正直知事は総花的殖産興業政策をとり、その結果、京都府営事業が数多くできていました。北垣国道はそれらをすべて民間に払い下げて身軽になりました。そして琵琶湖疏水に集中しました。

―― 総工費125万円どのくらい価値のある金額だったのでしょうか。その当時の国家予算が7000万円だったそうですから、2%弱です。これを京都市民が負担したのですから、大変なものでした。

―― たとえて言えば、上越新幹線を受益者の新潟県だけで、あるいは瀬戸大橋を受益者の香川県だけで政府の反対を押して建設したようなものでした。しかも技術的見通しのない時代に。

「日本人は安全と水は只と思っている」
 と、言われています。

 ―― しかし京都の人々は自分たちの金で水を確保しました。今、京都市には深刻な水不足の心配はありません。巨大な水がめ、琵琶湖疏水があるからです。

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京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(16)

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よく琵琶湖疏水については、「外国人お雇い技師が不可能と言うのを敢えて可能にした」と紹介されています。しかし私はちょっとオーバーではないかと思います。

―― 本当のところは、内務省土木局(戦後内務省が解体されて建設省)のお雇い外国人技師のヨハネスデレーケが1884(明治17)年2月27日付けで土木局長に提出した意見書の中で「トンネルがあるから京都府がいうように費用の面でそんなに安くはできなよ。因みにヨーロッパの例は、これこれしかじか。工事はお金のかかるもの。だから結果的に大変な費用がかかってペイするかどうか疑問。しかし、田邉朔郎の描いた等高線図(日本の地図では始めて)だけは見事である」というのが真相です。即ち「工事はできないが、計画だけは見事」と皮肉られたのです。

―― この意見書の影響でしょうか。最初京都府が60万円(現在の6000億円に相当)で計画していたのが、中央政府から追加工事を命令されて125万円(現在の1兆2500億円)に修正されました。

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京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(15)

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幕末明治の倒幕志士としての北垣国道を前ブログまでにおいて紹介しました。

―― 私は以下のように考えます。
北垣国道は志士として活躍した京都。そのときの思い出のある京が衰退していることを見るに忍びなかったものと思われます。

―― 明治の初めに明治天皇が東京に行幸されました。そして帰って来られませんでした。これにより、40万人の人口が20万人に減少しました。この時期に当たって北垣国道が第三代京都府伊(知事のこと)として着任しました。

―― これを見た北垣国道は、京都の復興を計画しました。

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京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(14)

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以後、1868(明治2)年に弾正台巡察、1870(明治3)年に北海道開拓権判事、1871(明治4)年に鳥取県少参事、鳥取藩士として堂々の凱旋です。
1873(明治6)年に一旦退官して野に下り、自由民権運動に身を寄せました。なんと血の気が多いことでしょうか。しかし1875(明治8)年には元老院書記官として呼び戻されました。1877(明治10)年に熊本県大書記官。ここで西南戦争の後始末で業績を上げました。

1878(明治11)年に内務省書記官、1879(明治12)年に高知県知事(県令)、1880(明治13)年に徳島県を高知県から分離独立させて徳島県知事を兼任。そして1881(明治14)年に倒幕志士とし刀を振り回した思い出の深い京の地の、京都府知事(府伊)を拝命しました。このとき北垣国道は、44歳でした。ちなみに申し添えます。当時の知事は、中央の内務大臣が任命する内務省の官吏でした。この状態は大東亜戦争敗戦までつづきました。

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京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(12)

前ブログからつづきます。産経新聞の山内昌之先生の記事の紹介から、元の話の筋へもどります。子孫が語る(9)からつづきます。

前回述べたように、生野の変で破れた北垣晋太郎国道は、養父の実家にまで逃げ、そこで切腹しようとしましたが、母親に「再起を期せ」と言って制止され、鳥取に逃げ込みました。

―― ここで付記します。首謀者の一人、平野国臣は"生野の変"の後で捉えられ、京へ連行されて入牢を受けていましたが、門(はまぐり御門)の変の直後に処刑(斬首)されました。

―― 生野の変で実際に戦闘に参加して生き残った武士は、北垣国道を含めてわずか2年です。そのせいか、北垣国道は生野の変に関して語ることを好まなかったようです。

―― それはさておき、北垣国道は八木良造を変名して鳥取藩に逃げ込み、藩の私的密偵となって京へ潜伏して幕府側の動向を探っていました。ところが第一次長州征伐の余波をうけて鳥取藩の藩論が一変し、勤皇を捕縛する動きがでました。

―― そこで生野の変を支援していた長州に逃げ、名前を柴捨造と変えて奇兵隊に身をよせました。奇兵隊で第二次長州征伐を経て伏見鳥羽の戦いに参加。

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京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(12)

前ブログからつづきます。産経新聞の山内昌之先生の記事の紹介から、元の話の筋へもどります。子孫が語る(9)からつづきます。

前回述べたように、生野の変で破れた北垣晋太郎国道は、養父の実家にまで逃げ、そこで切腹しようとしましたが、母親に「再起を期せ」と言って制止され、鳥取に逃げ込みました。

ここで付記します。首謀者の一人、平野国臣は生野の変の後で捉えられ、京へ連行されて入牢を受けていましたが、門(はまぐり御門)の変の直後に処刑(斬首)されました。生野の変で実際に戦闘に参加して生き残った武士は、北垣国道を含めてわずか2年です。そのせいか、北垣国道は生野の変に関して語ることを好まなかったようです。

それはさておき、北垣国道は八木良造を変名して鳥取藩に逃げ込み、藩の私的密偵となって京へ潜伏して幕府側の動向を探っていました。ところが第一次長州征伐の余波をうけて鳥取藩の藩論が一変し、勤皇を捕縛する動きがでました。そこで生野の変を支援していた長州に逃げ、名前を柴捨造と変えて奇兵隊に身をよせました。奇兵隊で第二次長州征伐を経て伏見鳥羽の戦いに参加。

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前ブログからつづき、山内昌之先生の産経新聞記事を紹介します。2011年11月24日と2011年11月17日の記事です。

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私は明治の政治家は、明治武力革命を仕掛けて勝利した軍人であったと理解しています。ですから、腹の据わり方が違います。彼らはつねに死に場所をもとめて働いています。

―― 山内昌之先生は北垣国道を評して言われます。「幕末明治の面白いのは、こうした生粋の革命家が民政家に転じても業績を上げる人物の多かったことだ」と。

―― 私は、このことは徳川時代の武士が受けた倫理教育に根づいていると考えています。自分のことよりも、公(自分が属する組織)のことを優先して考えるという習慣からくると考えます。

―― さらにいうと、彼らは死をおそれてはいませんでした。立派に死ぬことが、立派に生きることだと理解していました。確かに立派に死んだ人は、今でも私たちの記憶の中で立派に生きています。例を挙げましょう。

―― 明治の元勲、大久保利通、西郷隆盛、伊藤博文はいずれも死を覚悟して仕事をしていました。そう私は考えています。彼らは死に場所をもとめて仕事をしていました。彼らは徳川時代の武士ですから、彼らの関心事は「いかに立派に死ぬか」でした。そして立派に死んで今も私たちの記憶の中で生きています。彼らを私は尊敬しています。

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京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(10)

前ブログからつづきます。しかし話の流れを少し変えます。このブログを書いている最中にうれしいことがありました。東大教授山内昌之先生が曽祖父北垣国道と祖父田邉朔郎に関する記事を書いてくださいました。

―― 産経新聞の本日(2011年11月24日)と先週((2011年11月17日)の記事です。北垣国道のタイトルは「革命家から琵琶湖疏水の父」。そして田邉朔郎は「京都と北海道を開いた恩人」です。二人が娘婿、岳父の関係にあることが紹介されています。私が今書いているブログのタイトルそのものです。

―― 祖父田邉朔郎が岳父北垣国道の誘いに応じて帝国大学教授のポストを捨てて北海道庁鉄道部長を引き受けたことを私は立派だったと評価しております。このことはすでに拙著「びわ湖疏水にまつわる、ある一族のはなし」の中で紹介ずみです。平成の今、たとえ請われたとしても、東大教授を捨てて北海道庁の部長として赴任する先生がおられるでしょうか。

―― このことに対して東大教授山内先生も言われます。「内務大臣兼台湾総督だった児玉源太の陸軍参謀次長への降任ほどではなくても、格下げの感もある人事であった。いずれにせよ、必要とされる場所に屈託なくでかける明治初期の逸材たちの姿には頭が下がる」と。

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京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(9)

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北垣国道は、歴史に大きく残る「生野の変」の首謀者です。当時北垣晋太郎といいました。この二人が同一人物であることは、世間ではあまり知られていません。このブログを読んだ方は、このことを御認識していただくようお願い申し上げます。

―― 北垣晋太郎国道は但馬養父の庄屋(郷士)出身であり、池田草庵の塾に学んだ勤皇の志士でした。譬えて言えば、新撰組の近藤勇のような身分でした。しかし志す方向が異なりました。ロシア等が国境を脅かしているときでしたから、目的は国防でした。

―― 晋太郎国道は鳥取藩士や福岡藩士と共謀し、農兵300人を募集し、これを指揮して生野銀山の幕府代官所を襲撃しました。

―― 福岡藩士の平野国臣に頼んで8月18日の政変で長州へ逃げていた七卿落ちの一人、沢宣嘉を担ぎだしました。しかし3日で平定されました。農兵は負けると知って逆に指導者を後ろから鉄砲を撃ちました。沢は逃げました。

―― リーダー格の多くはその場で切腹しました。北垣晋太郎国道も養父の実家にまで逃げ、そこで切腹しようとしましたが、母親に「再起を期せ」と言って制止され、鳥取に逃げ込みました。

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京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(8)

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勅語を賜りました。曰く「琵琶湖疏水が完成しました。官民協力の成果が上り、まことに喜ばしい。従来から美術・工芸が盛んな京都に相応しい事業である。今後この水を活用して工業を興し、量来の富の蓄積を期せ」と。

―― 国の元勲達は、競ってトンネルクラウンに石額を書きました。書いたのは、久邇宮邦彦殿下、三条実美、伊藤博文、西郷従道、山縣有朋、松方正義、井上馨です。知事北垣国道も書きました。
青年技師の田邉(辺)朔郎は英国から英国土木会特賞、米国からセントルイス万国博覧会銀賞を受賞しました。ドイツからはミュンヘンのドイツ博物館殿堂入りの栄誉を受けました。

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京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(7)

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こんな大事業を京都市だけで実行しました。第三代京都府知事北垣国道が事業化推進。工部大学校で「琵琶湖疏水」をテーマに卒業論文を書いた、21歳の田邉朔郎が工事の設計・総監督に当たりました。

―― 京都府だけで実施したために、完成を危ぶんでいた国は当初冷淡でした。しかし見事に完成しました。竣工式には明治天皇・皇后両陛下が御臨席されました。「車駕東行」以来始めてで、20年振りの天皇陛下の御還幸に京都市民は歓喜しました。

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京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(6)

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当時、日本の重要な工事はすべて外国人技師の設計監督に委ねていました。琵琶湖疏水については外国人技師達は不可能だといいました。そこで琵琶湖疏水はずべてが日本人の手によって行なわれました。この工事の完成をもって早くも明治中期に日本の土木技術の独立がなりました。

―― 工事には近代工法を取り入れました。トンネル掘削には日本で最初の縦坑工法で工期短縮しました。山の途中で二箇所縦坑を堀り、トンネルの中間から両側に向かって進みました。掘削深度を浅くするために地形の沢の部分を選びました。ですから湧水に悩まされました。現在なら地形の尾根を選ぶでしょう。

―― インフラストラクチャーの整備されていないあ時代のことで大変な苦労がありました。例えば、電力が無いのでトンネル内部の照明はカンデラでした。湧水汲出しポンプは蒸気駆動。煉瓦は自製。技術者・技能者は現場で教育。ダイナマイト、雷管、導火線、セメントは輸入品でした。

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京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉(辺)朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子 ― 子孫が語る(5)

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しかし幹線の琵琶湖疏水は京都市民の生活必需品です。現在京都市民の飲料水の略100%を賄っています。琵琶顔疏水なしには京都市民は一日も生活できません。関西電力が5000キロワットの発電を行なっている。これはもともと京都市のものだったが、大東亜戦争中に発電と送電が「日本発送電株式会社」に強制的に統合されたもの。

―― 第一疏水は1885(明治18)年に着工、1890(明治23)年に完成しました。完成当時、通舟用運河としては世界最大級でした。舟の通るトンネルがあり、舟のケーブルカーもある運河など、前例がありません。とくに舟のケーブルカーは、インクラインは世界最大級で画期的でした。

―― その上、世界初の電力販売事業用の水力発電を開始しました。出力1500キロワットは当時世界最大でした。米国のナイヤガラ水力発電に先んずること5年です。ヨーロッパ諸国は、日本に見習って水力発電を開始しました。日本最初の超大型土木・電気事業です。

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