その際、書下し方針として以下のルールを定めました。即ち、訳出原本から判読不明として○○の状態になっていたところを推定して記入し、かつ、全体を翻訳した。翻訳に当たっては、この人名辞典は、本人が書いて幕府に提出した履歴書であると想定して訳出した。【 】内は、訳者による追加説明しました。
田辺孫次郎
高現米八十石 本国越前 生国武蔵 祖父田辺了水(次郎大夫) 死御書院与力相勤申候父田辺新次郎死富士見御宝蔵番相勤申候
【六代】田辺孫次郎
自分の【家禄】高は現米80石でございます。祖先の出身は越前の国であり、生まれは武蔵の国でございます。
自分は、祖父田辺次郎大夫(了水)が死亡後家督相続して『御書院与力』を勤めておりました父田辺新次郎が死亡後家督相続して『富士見御宝蔵番』を勤めております。
注)1
田辺次郎大夫(了水)とは、1835〔天保6〕年に歿した四代田邉次郎大夫克忠〔法名:釈了水、享年79歳〕の事。
注)2
田辺新次郎とは、1856〔安政3〕年に歿した五代田邉新次郎誨輔石庵〔法名:釈了石、享年76歳〕の事。
○○月七日従部屋住御書院与力見習罷出 同(天保)十一子年四月十一日御抱人与力被仰付幕府講武所西洋砲術教授方出役
自分孫次郎は、○○月七日に『部屋住』から『御書院与力見習』に罷り出て、同(天保)十一子年【1840年】四月十一日に、『御抱人与力』を拝命し、幕府『講武所』西洋砲術教授方として出役いたしました。
家督奉願候ニ付 同(安政)四巳年十一月六日願之通仮御許受 同五牛年ニ月四日家督被下置
父新次郎が死亡したので、自分孫次郎は家督を相続させてほしいと願い出て、同(安政)四巳年【1857年】十一月六日に願いの通り、仮にお許しを受け、同五牛年【1858年】二月四日に正式に家督相続させていただきました。
如父時小普請組大島丹波守組江入是迄之通引続相勤 其後組頭替 戸田民部組江入 万延元甲年十月○○日富士見御宝蔵番被仰付○○是迄之通引続出役相勤被仰渡候
家督相続した後、自分は父新次郎が【昌平坂学問所へ出役】させていただいた時のように、『小普請組』大島丹波守の組へ入り、これまで通り引き続いて【講武所へ】出役いたしました。その後『小普請組』戸田民部様の組へ組替えとなりました。
万延元甲年【1860年】十月○○日に『富士見御宝蔵番』を拝命し、○○是迄の通り引き続き【講武所へ】出役し、相勤めよと仰せ渡せられました。
この「柳営会とは」の項をお読みになって、「柳営会会員資格がある」と思い、かつ、入会したいと思う方は私田邉康雄に御連絡ください。入会資格があるかも知れないと私が思った場合は、柳営会の事務局へ紹介申しあげます。
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